そうした折、一座は米国公演の話を持ちかけられ、1899年、奴は一座に同行します。5月21日、総勢19名の一行はサンフランシスコ市内のミッションストリートの波止場に到着。前述の「マダム貞奴」の中で、当時35万人を擁したこの大都市のビルやケーブルカーを目の当たりにして、奴が「天竺か雲の上ではあるまいか」と驚いた様子が紹介されています。
公演は当初、ターン・ヴェライン座で日本人社会向けに2週間行われ、ついでカルフォルニア座でも公演。サンフランシスコ・クロニクル紙やサンフランシスコ・エグザミナー紙でも絶賛されました。奴が幼い頃から身につけてきた優美な舞、そして彼女の愛らしさは人々を魅了し、ここに女優「貞奴」が誕生しました。
しかし、一座の芝居は初めこそ珍しさもあって好評だったものの、次第に退屈なものに映るようになり、観客数は瞬く間に減少。さらに、興行主に収益を持ち逃げされ、一座は食うこともできない状況に追い込まれます。その際、日本人移民らは寝場所を貸し、一座を助けます。一座は日本人移民らに帰国を促されますが、それを聞き入れず、滞在100日目、次の街へと向かいます。
一座は食うや食わずの経験をしながらも、シアトル、シカゴ、ボストンなど大陸を横断して公演を続け、次第に評価を高めて、ついにはワシントンで大統領夫妻を賓客として迎えるまでになります。苦労して公演を続ける中で、音二郎と奴は米国人の嗜好を掴み、どんな芝居が最も受け入れられるのかという公式のようなものを見出したようだとレズリー・ダイナーは著しています。つまり、西洋で成功するビジネスモデルを確立したということかもしれません。
ニューヨークを発った一座はロンドン、パリ、ベルリン、ローマなどでも公演します。貞奴は各地で人々を魅了し、一座は1902年8月19日に日本に戻ります。帰国後の音二郎と貞奴は、今度は日本人の嗜好に合わせる形で西洋の芝居を紹介することを考えます。貞奴は1908年、女優育成のため帝国女優養成所を開所。1911年に音二郎が病死した後も、一座の公演活動を引き継ぎます。1917年に引退しますが、貞奴は女優業を通じて、男性が女形を演じる旧来の習わしを打ち破り、職業女優の礎を築く役割を果たしたと言えます。
貞奴は、後に名古屋の川上絹布(株)の女社長となり、1920年、名古屋に居を構えます。ここで、娘時代の悲恋の相手であった福沢桃介(福沢諭吉の婿養子で電力王とも言われた実業家)とともに暮らし、桃介が東京に戻った後も暫くは東京と名古屋を行き来する生活を送ります。
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