一般編  Vol.171
胤森 貴士さん
1937年広島生まれ。太平洋戦争末期に広島に投下された原子爆弾により両親や姉2人を失い、自身も被爆者として壮絶な日々を送る。18歳の時にアメリカへの復讐心とともに渡米。紆余曲折を経て牧師となり、「許し」の心を得る。現在は被爆者として非営利団体「Silkworm Peace Institute」を設立し、講演活動等を行っている。
Revenge to Forgiveness
1945年に広島に投下された原爆の被爆者。18歳の時、アメリカに対する復讐心とともに渡米。被爆直後の壮絶な体験や、被爆者として、外国人として受けた差別を乗り越え、現在は平和活動家として講演活動等を精力的に行っている胤森さんにお話を伺いました。
胤森 貴士さん

(Takashi Tanemori)BaySpo 1374号(2015/03/27)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ
 そもそもの渡米の理由は「アメリカへリベンジするため」でした。「家族を殺し、残された私にも辛く苦しい思いをさせたアメリカに対して、何とかしてリベンジしてやりたい」という気持ちだけでアメリカにやってきました。

その体験についてお聞かせください
 私は昭和12年広島生まれです。8歳の時、実家の近くの小学校で爆心地から1164メートルのところで被爆しました。原爆で両親と祖父母、2人の姉を一度に失いました。被爆直後はやけどもひどく、完全に治るまで1、2年はかかりました。家も両親もなく、道端のごみを漁っては食べ物を探すという毎日がしばらく続きました。世間からは「親なし子」と呼ばれ、学業を続けることも、就職することも難しい日々でした。16歳のとき、毎日があまりにも辛く苦しかったので、自殺を図りました。毎日違う薬局に行き、睡眠薬を集め、ある日100錠集まったところで、それを一度に飲んだのです。しかし、死ねませんでした。2日後、気付いたら病院のベッドの上にいたのです。私は死んであの世にいる父に会いたかったのに、それができなかったのです。それは本当にショックな出来事でした。なぜなら、父は生前、「絶対に自分に負けるな、自分を信じろ」と常々言っていた人でしたが、私はその言葉を破り、自分に負け、自殺などを図ったために、あの世にいる父から嫌われてしまったのではないかと思ったからです。「なぜ自分はこんなに苦しい毎日を送らなければならないのだろう? 何もかもすべて、原爆を落としたアメリカのせいだ!」そう思い、何かできるかは全く未知でしたが、とりあえずアメリカに乗り込んでやろうと思い、渡米した、というわけです。

アメリカでの生活について
 18歳のときに渡米し、はじめはカリフォルニアのデラノという場所の農園で働きました。しかし、数カ月後、食中毒のような症状で倒れ入院しました。数日で退院できると思ったものの、一向に退院できる気配はありませんでした。実は、被爆の後遺症が現れたため、研究用に病院で6カ月間も様々な検査や実験台をさせられたのです。当時私は英語が話せなかったため、「出してくれ」とお願いしても精神病患者だと思われ、精神病患者用の隔離施設のようなところに入れられてしまいました。それは本当に孤独な毎日でした。
 そんなとき、ある白人の看護師の女性(メアリー)が私を救ってくれました。外国人で被爆者である私の手を握り、慰めてくれたのです。そして、身寄りのない私の保護者となり、病院から退院させてくれたのです。私はそれまでは「アメリカ人を皆殺しにしてやりたい、親子を引き離してやりたい」と復讐することばかりを考えていたのですが、このときにはじめて、アメリカに対する憎しみが溶けて消えていくのを感じました。
 その後、帰米2世の人からモデストにある農園関係の仕事を紹介してもらい少しの間働き、その後、1958年にサンフランシスコに来て、少しだけ語学学校で英語を勉強しました。
 しかし、入院生活中に出会ったメアリーのことがずっと気になっていました。「彼女はなぜ外国人である、被爆者である私にあんなに優しくしてくれたのだろう」と。そう考えたとき、彼女の信仰に興味を持ちました。彼女はクリスチャンだったのです。「私も彼女のような心を持ちたい、憎しみではなく愛情をもてる人間になりたい」そう思い、牧師になることに決めました。ミネソタ州にある神学の大学、大学院に通い卒業。その後、インディアナ州で12年ほど牧師として私立高校や神学大学の教員として活動をしていました。

ベイエリアへ、そして自伝の執筆
 しかし、当時まだ人種差別が色濃く残っていたアメリカ中西部で牧師を続けるのは難しく、1979年、カリフォルニアに戻り、ターロックという町で、特定宗派に属さない教会で牧師をしていました。しかし、こちらでも1年後、「日本人だから」という理由だけで、牧師を辞めさせられてしまいました。その後、ターロックで日本庭園を開き、そこで日本食レストランをしばらくの間経営していましたが、心臓麻痺で倒れ、店を閉めざるを得なくなりました。そして、このあたりから被爆の後遺症により、視力が弱まり、視野がだんだんと狭くなっていきました。被爆の後遺症が年をとるにつれていろいろな形で表れてきはじめましたが、同時にこの頃から、次世代の人たちが平和に生活できるように、自らの被爆の体験や、復讐ではなく許すことの大切さを後世に伝えたいと思うようになりました。そしてこの頃、イーストベイのラファイエットに移り、2008年、着想から19年かけて、自伝である『Hiroshima – Bridge to Forgiveness』を出版しました。

現在の仕事について
 現在は、視野がかなり狭くなり、介助がないと日常生活が困難になってきているので、バークレーのアパートで、盲導犬のユキナと一緒に暮らしています。そして、Silkworm Peace InstituteというNPO団体を創設し、ライターとして、アーティストとして、詩人として、学校や教会などでの講演活動を行い、私の被爆体験をみなさんに知ってもらう活動をしています。

現在住んでいる家
 バークレーにあるシニアアパートに住んでいます。

睡眠時間・起床時間・就寝時間
 毎日だいたい7時くらいに起きます。起きるというより、ユキナに起こされます。夕食はたいてい5時くらいには食べ、夜12時くらいには寝るようにしています。

お気に入りのレストラン
 サンフランシスコの日本町にある「いずみや」や「山昌」は、知り合いが働いているのでよく行きます。

一億円あたったら
 私の平和活動の宣伝のために使いたいです。特に、地元の広島に戻って私の体験を若い人たちに伝えていきたいです。

日本に戻る頻度
 1990年代はほぼ1年に1度帰っていましたが、最近は2005年以来帰れていません。

日本に持っていくお土産
 ワインや、See’s Candiesでしょうか。

現在のベイエリア生活で不便、不安を感じること
 特にありません。私は底辺という底辺、地獄という地獄を原爆により体験しましたので・・・。

日本に郷愁を感じるとき
 毎日です。

永住したい都市
 バークレー

5年後の自分に期待すること
 今していることと同じことを続けていたいです。私の平和活動を続けるための資金集めを頑張りたいと思います。

最も印象に残っている本
 聖書

好きな言葉
 平和

(BaySpo 2015/03/27号 掲載)

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