一般編  Vol.207
浜田 ちづさん
短大を卒業後、与論島で1年自活する。東京に戻り、アンダーグラウンドの劇団で俳優を目指す。その後オペアを手段にして渡米。ウエイトレス、キャンドル工場などで働き、布団作りを始めて今に至る。この間、アメリカ男性と結婚し、2児を育てる。
花と布団と反原発と
今から34年前にイーストベイ初の布団店をオープン。布団、掛け布団などを作って販売するかたわら、病気の家族の支援、反原発・反核活動を続けている浜田さんにベイエリアでの暮らしぶりを伺いました。
浜田 ちづさん

(Hamada Chizu)BaySpo 1444号(2016/07/29)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ、渡米した年
 たぶん20歳ごろ、テレビのドキュメンタリーでバークレーを知ったと思います。「日本を出て海外に行こう」と決意したとき、片言にしろ英語以外の外国語は何も知らないのでアメリカへと決めた時、革新的で若者の街、バークレーに惹きつけられました。1974年、26歳の時です。

自分の専門分野について
 イーストベイで初めての布団店「Thousand Cranes」をバークレーの4thストリートで始めました。1982年創業ですので34年になります。作業場を持ち、そこで布団、掛け布団、布団皮を日本の生地で作り、売っています。布団以外にもオリジナルの服、小物、ギフトも置いています。それから、2011年の福島原発事故以来、反原発・反核活動家という肩書きが一つ増えました。「ノー・ニュークス・アクション」というグループのメンバーです。

その道に進むことになったきっかけ
 布団屋業は子供を抱えて失業しているときに、布団を作らないかと声をかけてくれた人がいたからです。反核活動は、福島原発メルトダウン以来、核兵器はもちろんのこと人類は原発を持ってはいけないと確信したからです。原爆投下後71年経っても、未だ苦しんでいる人たち、その子供たち孫たちが苦しんでいる、福島原発メルトダウンの5年後もまだ犠牲者は救われていないし、事故も収束していない。放射能の恐ろしさを認識し、原発はすぐに廃炉にしなければいけないと訴え続けています。

英語で仕事をするということ
 店ではお客様が9割以上ネイティブの人ですから、高校程度の私の英語力でそれは大変でした。特に電話での応対は、言葉だけが道具ですので、さらに大変です。新聞を読むことが好きでニューヨーク・タイムズ、SFクロニクルを毎日読みます。これはかなり英語力をつけてくれたと思います。でもともかく最後はやる気があるかないかです。真心を持ってあきらめず応対すれば、なんとか通じることも分かりました。活動の分野では、定期開催しているサンフランシスコでの抗議集会では英語で15分ほど話さなければならず、はじめはしどろもどろでした。しかし恥ずかしがっていては人に想いは伝わらないので必死です。集会は48回続いていまが、今も毎回苦労しています。

英語で失敗したエピソード
 店名「Thousand Cranes」を正しく発音できず、卸業者にこちらの名を言っても「サウザンド・クレヨン?」「サザン・クレーン?」などと聞き返され、情けない思いをしました。これではいけないと、ネイティブの友人に頼んで矯正してもらいました。失敗はほとんど発音にあったと思います。家庭は夫と子供2人がネイティブで、ある時疲れが極まっていたのでしょう、自分の思いが家族に伝わらず泣いたことがありました。そのとき10代だった息子は、「母さんが泣いたのを初めて見た!」と驚いていました。その後自分から進んで日本語を習って、私の英語をもっと理解できるようになり、「そういう時はこう言ったらいいよ」と教えてくれることもありました。今思えば、家族はもちろんバークレーで知り合った人たちは私のつたない英語に本当に根気強く付き合ってくれたものです。

英語が100%ネイティブだったらどんな仕事に?
 ジャーナリスト。
 
あなたにとって仕事とは?
 生活の糧を得る仕事は布団店です。それがこうして長続きしたのは、その中に、布団皮をデザインするクリエイティブな部分、確かな品質のものしか作らない職人作業、そして店の展示・配置創作は舞台装飾にも似て、店が一つの舞台であることが愉快で楽しいことだからでしょう。自分の持っているアイデア、あるいはデザインなど即現場で実行でき、その反応が見られるというのもいいです。さらに、店は私にとっては、社会の窓口、接点でもあるので、元気なうちは続けたい仕事です。もし仕事というものが、生活の糧を得るためのものだけではないということなら、他にあと二つあります。一つ目は2人いる息子のうち、もうすぐ40歳になる長男が19歳で精神病を発病、以来20年家族ぐるみで闘病を続けています。統合失調症(精神分裂病)は未だ特効薬がなく、完治できる病気ではありません。この病気は家族に病人がいないと理解できないほど、複雑で手のほどこしようがない時が多々あります。ホームレスになることもあり、警察に捕まることもあります。彼を少しでも日々安定させ、生きていることも楽しいと思えるようにするのが私の仕事だと思っています。この病気を理解するグループに入り、勉強と支援をしています。それと、二つ目は核兵器絶滅と原発廃炉運動です。サンフランシスコ、ベイエイリアにはかなりの日本人が住んでいるのですが、危機感を持って一緒に立ち上がって欲しいです。 

生まれて初めてなりたいと思った職業
 ラジオ、テレビのアナウンサー。でも大企業のサラリーマンには絶対になりたくないと思っていたので、アナウンサーも無理でしょう。

いまの仕事に就いていなかったら
 ビジネスは小さいながらも一国一城の主で、とても性に合って気に入っていますから、他には考えられません。

現在、住んでいる家
 バークレーの丘の家で、湾が所々見えます。夕焼けが目を見張るほど綺麗です。でもフェンスの扉を開け放しにしていたら、鹿が入ってきて花をすべて食べてしまいます。

休日の過ごし方
庭で花作りです。ナーサリーに花の苗を買いに行ったり、苗を育て、花を咲かせうっとりと見ているのが大好きです。私にとって庭は大きなキャンバスで、花々が絵の具。花々の色、形、バックグラウンドの葉の緑、隣の花との思いがけない配色など、毎日変わっていく花々たちに魅入っています。

1億円当たったとして、その使い道
 1億円では足りませんが、バークレー市にかけあって精神病でホームレスの人々が住める施設の設立資金として寄付します。

日本からベイエリアに持って帰ってくるもの
 上等の緑茶、自然無添加のだし、花の種、羊羹。

日本に戻る頻度
 1年に1回、ビジネスの買い付けで日本へ行きます。

現在のベイエリア生活で、不便を感じるとき
 もっと公共の交通手段が発達して欲しいです。東京の地下鉄のようだと便利ですね。BARTももっと路線が伸びてきれいになればいいですね。ともかく車が多すぎますし、早くロサンゼルスへも高速列車が通るようになれば嬉しいです。

現在のベイエリア生活で不安に感じること
 バークレー市はメディカル保険を持っていれば、息子のような精神病者を診てくれるクリニックのある希少な市なのですが、まだまだこの分野には偏見もあり、医療とケア状況が滞っています。それからフリーウェイでの交通混雑はますますひどくなっていますし、温暖化で湾の周りが2050年にはかなり水に浸ってしまうことも不安です。

日本に郷愁を感じるとき
 正月とか四季折々の楽しい行事のあるとき。

永住したい都市
 たぶんバークレーです。

5年後の自分に期待すること
 元気で働いていること。

最も印象に残っている本
 芥川龍之介の『羅生門』、夏目漱石の『坊っちゃん』、宮沢賢治詩集『春と修羅』。

最近読んだ本
 矢部宏治の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』。

最近観た映画
 『ジャングルブック』

自分を動物にたとえると、なぜ?
 猫。自分勝手だからです。

座右の銘
 千里の道も一歩から。

(BaySpo 2016/07/29号 掲載)

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