一般編  Vol.254
摺木 隆子さん
1951年2月生まれ。母親に連れられて1960年に父親の住む南加に渡米。周りに日本人がほとんどいない環境で学生時代を過ごし、大学を卒業後、GTE Corporationに5年勤務。1976年7月4日(アメリカ建国200年記念の年)に結婚、二男一女に恵まれる。1980年にバーリンゲームに店をオープン、1990年に現在の地、サンマテオに移る。1998年に店の火事を機に店内をリフォーム。丸1年休業後の1999年7月に再開店。昨年最愛の夫をガンで亡くしたが、家族、特に孫たちの支えにより、仕事に、趣味に前向きに取り組む日々を送る。
夫婦で支え合い、育んできた幸せ
サンマテオ・ダウンタウンの「Suruki Supermarket」を夫婦二人三脚で切り盛りし、長らく人々の生活を支え続けて来た摺木さん。日本舞踏清乃本流アメリカ支部にも参加し、日本とアメリカの文化の橋渡しにも貢献。その摺木さんにベイエリアでの暮らしぶりを伺いました。
摺木 隆子さん

(Ryuko Suruki)BaySpo 1534号(2018/04/20)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ、渡米した年
 渡米したのは、まず父が難民の形(※注)で1955年に渡米。フレズノ(セントラルバレー)近辺でブドウ園、桃園などで働き、生活が軌道に乗ったところで家族呼び寄せで60年2月に私は母に連れられて弟、妹と4人で渡米しました。ブラジル丸という船で2週間かかって、着いたのが南加のサンペドロ港でした。道中、船酔いでずっと横になっており、不安や緊張を感じる暇もありませんでした(笑)。

 ベイエリアに来たのは主人と結婚したのがきっかけです。それまでは南加のサンタモニカでGTE Corporationに勤めていました。たまたまサンフランシスコに遊びに来た時に主人と出会いました。当時、起業したばかりの主人は、経営を共にするパートナーのような人と結婚したいと考えていたようです。私と出会うなり、最初の一声が「俺の嫁さん、お前でもいいよ」。いきなり言われてびっくりしましたが、よくよく話してみると同じ鹿児島出身で共通の友人がいたり、親同士も知り合いだったりすることがわかり、その場はそれで友人として仲良くなりました。私は特に気にしていませんでしたが、主人は翌週には私の住むLAへ訪ねてきました。あいにく私は不在で、しかし主人はなんと私の父に挨拶を済ませておりました。その後、お互いベイエリアとLAで週に一度の電話のやりとりを交わしながら交際へ発展、結婚に至りました。今思うと主人から初めていわれた言葉は、照れ屋の主人の性格がよく表れていると思います。

(※注)当時、アメリカの「難民救済法」を利用して、鹿児島から農業先進国のカリフォルニアで農業を学ぶため渡米した人々がいた。

ベイエリアの印象
 結婚してベイエリアに移る前はLAの方に住んでいましたので、LAと比べて空気が良く青空がきれいという第一印象でした。海も山も近くて見所いっぱいで大好きです。交通渋滞が最近は曜日、時間を問わず問題ですね。

自分の専門分野について
 まだサンフランシスコに日系スーパーが一軒だけしかない時代に、主人が車で移動しながら販売する「移動スーパー」を始めました。私の主な仕事は仕入れ、在庫管理、会計、帳簿担当です。車の中に魚介類、野菜、肉を含む食品を詰め込み、北はSF市内のリッチモンド、南はサリナスまで走りました。夜も遅くまでの仕事は大変でした。しかし当時、日系スーパーどころか便利なお店が無い時代、SF市内の駐在員のご家族やサリナスで花農家を営む方々が「いつも財布抱えて来るのを待ってるよ」と言ってくださるのが張り合いになり、主人と一緒にやりがいを持って頑張りました。その後、1980年にバーリンゲームに固定店をオープン。その時は移動スーパーも続けていました。そしてサンマテオ市によるダウンタウン再開発が始まった1990年に、元は銀行だった現在の場所にサンマテオ店を開店しました。サンマテオで営業して今年で28年になります。

英語で仕事をするということ
 小学校3年生でノーもイエスもわからないまま学校に行き、当時ESLのサポートもない時代で自力で覚えました。今は、ほとんどネイティブで、英語で仕事することが当たり前です。

英語で失敗したエピソード
 沢山あったのですが、小学校に転校した第一日目は教室でほとんど下を向いたまま座っていたのを今でも思い出します。

英語が100%ネイティブ
だったらどんな仕事に?
 私の場合反対で、日本語がもっと出来たらと考えます。

あなたにとって仕事とは?
 商売を通して、お客様とつながれることが喜びです。移動スーパー時代のお客様が日本に帰国して何十年にもなるのに、未だにベイエリアに遊びに来たついでに訪ねて来て下さったり、「子供のころ移動スーパーが来るのを楽しみにしていた」と言って頂くお客様にお会いしたりと、とても幸せな気持ちになります。

生まれて初めてなりたいと思った職業
 海女さん。

幼い頃はどんな子供でしたか?
 お転婆で外で遊ぶのが大好きな子供でした。私の小さい頃は、女の子はみんな学校にバービー人形を持ってきて遊ぶのが流行っていましたが、私は男の子に交じって野球やドッジボールに夢中でした。おかげで勉強はそっちのけでしたが算数は得意でした。

いまの仕事に就いて
いなかったら
 不動産業か貿易会社に興味あります。

休日の過ごし方
 趣味の踊りの催しが無ければ家で洗濯、掃除、孫の子守をしています。

近所の好きな場所
 フォスターシティには沢山の公園がありますが、一番近いブースベイパークはテニスコート、バスケットコート、砂場、子供用遊具、BBQスペースなどなんでもあり良い遊び場です。

愛用するデバイス、家電
 デスクトップ。

最近買ってよかったもの
 サングラス(奮発してRay Banを購入しました笑)。

1万ドルの臨時ボーナス、その使い道
 孫たちの学費貯金にします。

最もお気に入りのレストラン
 サンマテオ・ダウンタウンにあるレストラン全部。サンマテオは2013年にBest Small Town for Foodの称号を得るほど美味しいお店ばかりが並び、1つになんて決めきれません。

最近日本に戻って驚いたこと
 田舎に行ってもチリ一つ落ちておらず、綺麗にしてるのにびっくりでした。

日本に持って行くお土産
 ドライフルーツ、ナッツ類、チョコ。

日本からベイエリアに持って帰ってくるもの
 以前は主人の衣類が主でした。

地元の自慢を教えてください
 サンマテオ日系コミュニティの歴史は長く、サンマテオ仏教会は108年、サンマテオ日本学園は来年100年を迎えます。大阪府豊中市と結ぶ姉妹都市の絆も50年以上になります。先人の方々の働きがあって、今の私たちがあり、誇りに思います。

お勧めの観光地
 子供たちが小さいころよく行っていたレイクタホです。

最近観た映画
 孫2人を連れて『ブラックパンサー』を見に、何(?)年かぶりに映画館へ行きました。

最も元気になれる音楽
 ビートのきいたRhythm and Blues。

これからの自分に期待すること
 好きな旅行も楽しめる健康体でいる事です。今年は主人と私の故郷である鹿児島を訪ねる予定です。今年は明治維新150周年の年で、鹿児島県を挙げてセレモニーが行われます。その一環で、鹿児島を出て海外で文化交流を行う人々にも声が掛かり、私も参加する予定です。

(BaySpo 2018/04/20号 掲載)

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