一般編  Vol.213
徳山 満智子 コンウェイさん
広島県出身。3歳の時に父の制帽会社を立て直すため家族で大阪へ。奈良県の生駒に住む。大阪市立工芸高等学校図案科を卒業、関西外語大でフランス語とスペイン語を学び、1967年にアメリカ留学。1969年にヨーロッパ留学中イギリス人と結婚。1989年から1993年までハワイ大学の講師を務め、夫の死後1998年にサンフランシスコに移住。2012年サンマテオ大学の日本語の教授席を引退。現在も日本語会話を教えている。
学ぶことが自分を生かす人生
サンフランシスコの空気が自分に合っていると感じ、夫の死後、新天地としてベイエリア生活をはじめたコンウェイさんにベイエリアでの暮らしぶりを伺いました。
徳山 満智子 コンウェイさん

(Machiko Tokuyama Conway)BaySpo 1450号(2016/09/09)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ、渡米した年
1967年にアメリカに留学しました。当時は黒人の市民権問題でアメリカ中が騒がしく、デモや市民と警察官の衝突が日々起こり、そんな時に留学して来た私は勉強することが場違いに感じて、1学期が終わって日本へ帰りました。サンフランシスコから横浜まで客船プレジデント・ウイルソン号で帰国途中、未来の夫になるジャック・コンウエイと船の中で出会いました。その後1年の文通、翌年ヨーロッパ留学中に再会、スペインで1969年に結婚しました。ベイエリアに住むことになったのは1998年です。ジャックが亡くなって3年後にハワイからサンフランシスコへ移りました。きっかけはジャックの友人のラビ(ユダヤ教の指導者)、デビィット・ロビンの招待でサンフランシスコを訪れたこと。ここの空気が自分に合っていると感じ、新しい出発の地と決めたのです。

ベイエリアの印象
 1968年の12月にサンフランシスコ港から日本に帰国したのですが、帰国前の数日間滞在したサンフランシスコの初めての印象として、「ここならアメリカに住んでも良いな」と思ったのを覚えています。それは他のアメリカの街では感じられなかった東洋の空気でしょうね。無理せず自分らしく生きられる、また、生きている人たちの雰囲気というか・・・。国籍を越えた人類共同体のコミュニティがあることを感じたのかもしれません。

自分の専門分野について
 ハワイ島に20年近く住んでいました。子供たちが高校に入るころ、私もハワイ大学で修士の勉強を始めました。その時ハワイ大学で日本語の講師が募集されていて、応募したところ採用され、日本語と日本の文化を教えることになりました。子供たちを教えることが好きで、2人の息子と1人の娘は3歳ぐらいのときから、自宅で日曜学校を始めていました。1976年からはヘッドスタートの保育園でボランティア活動、その後小学校、中学校、高校、大学と数々の教育機関で活動する場を与えられました。ウォードルフ学校で3年間教える機会があり、その時教育とは何かを学びました。それが現在のグローバルユース教育に繋がっています。1998年にサンフランシスコに移り住んで、スカイラインカレッジ、ディアブロバレーカレッジを経て、サンマテオ大学に就職、2013年に退職、現在まだショートコースの日本語会話を教えています。若者たちとともにこれからの教育の有り方を学んでいます。

その道に進むことになったきっかけ
 ハワイ大学で修士の課程を勉学中に、日本語の講師が足りなくて就職。それ以後ハワイの教育機関で1989年から1993年まで仕事をすることになりました。

英語で仕事をするということ
 日本語の教師として英語社会では、英語も堪能であることを求められるので、どちらも使い分けることです。

英語で失敗したエピソード
 主人がイギリス人だったので、結婚当時から発音や話し方、文法はいつも注意されていたので助けられました。しかし日本語の授業中、ローマ字で書く所と英語のスペルがごちゃ混ぜになったことがあり、注意するようになりました。

英語が100%ネイティブだったらどんな仕事に?
 子供たちの教育が私の天職だと思っているので、特別にこれといって別の職業を考えたことはありません。

あなたにとって仕事とは?
 自分に与えられた才能を発揮するところ。

生まれて初めてなりたいと思った職業
 小さいときから母に「満智子、あなたのお仕事は勉強です」と言われて育ったので、今でも学ぶ姿勢の生徒です。なりたいと思う職業はありません。「学ぶ」という姿勢が私を生かす人生だと思っていますから。

いまの仕事に就いていなかったら
 現在の仕事をしていないとしたら、私は死んだことになります。なぜなら今の私は生まれたときからずっとやりたいと思った道を歩んでいるからです。

現在住んでいる家
 2013年にサンマテオ大学を退職後はコルマ市のシニアハウスに住んでいます。コルマはサンフランシスコから3マイルぐらい南に位置していますが、やはり霧の街です。しかし丘を越えれば太平洋が広がり、海辺や森の散策も出来て、心地良い所です。

乗っている車
 Toyota 4 Runner

睡眠時間・起床時間・就寝時間
 通常8時間睡眠です。朝8時に起床して、午前12時ごろ就寝します。

休日の過ごし方
 土曜日はサベス(安息日)なので祈りと書き物をしています。日曜日はひ孫とすごしたり、友人たちとの集まりやコンサートに行きます。

好きな場所
 海や森など自然の中を散策できる場所。

最もお気に入りのレストラン
 寿司シェフをしている息子のレストラン「Ebisu」。

よく利用する日本食レストラン
 サンフランシスコの「Ebisu」です。

1億円当たったとして、その使い道
 現在活動している、世界中の子どもたちの教育のためのグローバルユース教育の活動資金にしたいです。

日本に戻る頻度
 教職中は毎年日本へ帰っていましたが、現在は必要があれば帰っています。

最近日本に戻って驚いたこと
 日本中どこを訪れても、町並みが都会化してしまって、郷土色が失われつつあると思いました。

日本に持って行くお土産
 サンフランシスコのチョコレートや、アーモンド、ナッツなどのカルフォルニア産の食品。

日本からベイエリアに持って帰ってくるもの
 お茶やのりなど軽い食品。

現在のベイエリア生活で、不便を感じるとき
 必要な物は何でも手に入るので不便は感じません。

現在のベイエリア生活で不安に感じること
 ベイエリアに住んでいて一度も不安を感じたことはありません。

日本に郷愁を感じるとき
 郷愁を感じるのは場所ではなく、昔一緒に過ごした家族のことや友人たちと過ごした楽しかったことを思い出すとき。

お勧めの観光地
 広島と長崎です。世界中の人々が原爆の恐ろしさを知って、平和な世界作りの灯火を心の中に付けて欲しいです。

永住したい都市
 どこという場所ではないのですが、Sutainable Community(自然農法と自然のエネルギーを活動させているエコロジーグリーンの社会)に住みたいです。

5年後の自分に期待すること
 現在活動しているグローバルユース教育を次の世代が受け継いで、一緒に学んでいられればいいなと思います。




最も印象に残っている本
 ユダヤ系の思想家、哲学者であるAbraham Heschelの『Souls on Fire』です。

最近読んだ本
 Shizue Seigel編集の『Standing Strong! Fillmore & Japantown』です。

最も印象に残っている映画
 黒沢明監督の『夢』。

座右の銘は?
 「I and Thou」 by Martin Buber。

(BaySpo 2016/09/09号 掲載)

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