一般編  Vol.238
立花賀曜子さん
Kayoko Designs(www.kayokodesigns.com)オーナー・デザイナー。バンド「Kaja(カヤ)」のボーカル。Yamaha Popconつま恋本選会入賞、世界歌謡祭出場、1981年レコードデビュー。1983年解散後結婚、1989年渡米。2015年より再び音楽活動を開始。自身初のソロアルバムを来年1月発売予定。夫立花紀彦へのトリビュートアルバムとして、Kajaの楽曲とオリジナル計8曲を含む。プロデューサー/アレンジャーは古く親交のあったセンチメンタル・シティ・ロマンスの細井豊氏。SF阿波踊り桜連のお囃子、三味線、唄担当。
すべての出会いに感謝を込めて
日本でレコードデビュー、東京からニューヨーク、その後ベイエリアに1990年代のはじめに家族で移住してきたという立花さんに日頃の暮らしぶりを伺いました。
立花賀曜子さん

(Kayoko Tachibana)BaySpo 1503号(2017/09/15)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ、渡米した年
 1989年、ひとり娘が2歳半の時に、当時イベントプロデューサーをしていた主人がそれまでの東京での仕事を辞めて、人生に変化を求めるべく、思い切って家族でニューヨークへやって来ました。ニューヨークで3年ほど過ごし、ベイエリアに移ってきました。

ベイエリアの印象
 ベイエリアに移る前にいたニューヨークに比べて、人の歩く速度がぐっとゆっくりに感じました。また、生活のほとんどが車移動となり、新しく友達を作るのが難しく感じました。

自分の専門分野について
 大学は福岡の教育大学で美術を専攻したので、中学校の美術の先生になるはずだったのですが、学生時代から主人と「Kaja(カヤ)」というバンドを組み、卒業後ヤマハのPopconつま恋本選会で入賞、世界歌謡祭へ出場した後にDiscomateレコードからデビューしたので、そのまま続けていれば、また違った人生だったでしょうね。結局バンドは解散して結婚、専業主婦の後に家族で渡米、ニューヨークでジェエリーメイキングのクラスを取って、趣味で和紙とメタルを組み合わせたオリジナルジュエリーを作り始めました。1993年にジュエリーデザインのビジネスを始めました。

その道に進むことになったきっかけ
 1992年に主人がニューヨークで手伝っていた仕事がなくなったので、サンフランシスコに移ってきました。しかし主人に思うような仕事も見つからずに、ビザも切れるのでそろそろ日本に帰国しようとしていたころ、たまたま永住権に当選しました。それで私の趣味だったジュエリー制作を主人が一緒にビジネスとしてやろうと提案して、「Kayoko Designs」をスタートさせ、カリフォルニア各地でのArts & Crafts Showに出店するようになりました。

英語で仕事をするということ
 基本的には、Arts & Crafts Showで、作品を直接見て気に入った人に買ってもらうというシンプルな仕事なのと、ジュエリー制作は主人とふたりで自宅スタジオでの仕事だったので必要最小限の英語力で済みました。

英語で失敗したエピソード
 LとRが住んでいた都市名(Brooklyn, El Cerrito)にあったので、発音を理解してもらうのにいつも疲れます(笑)。

英語が100%ネイティブだったらどんな仕事に?
 私も主人も英語は仕事と生活に最小限必要な程度で、きちんとこちらで勉強をする機会がなかったので、逆にそのハンデのお陰で自己表現としてのユニークなオリジナル作品を作るきっかけになったと思います。多分100%ネイティブだったら、本来の性格的にはふたり共外向的なので、普通にコミュニケーションをそつなくこなしていた思いますが、結局私は和紙ジュエリー作家に。そして、主人は自身のオリジナル音楽をCDに残しました。

あなたにとって仕事とは?
 「和」をテーマに、1993年からサンフランシスコベイエリア、ハワイ、シアトル、デンバー、フェニックス、ニューヨーク、バルテイモアなど、多くのフェアやArts & Crafts Showに出店してきました。和紙ジュエリーや「家紋」のジュエリーなどで、日系の方々にも広く親しまれ、毎年の桜まつりのコート達へのシルバー桜ペンダントのギフトなど、永く北加の日系コミュニティにも貢献してきました。日本人として自分が備え持っているオリジナリティ、センスをアメリカの土壌で活かせること、それが私にとっての仕事でした。24年間、夫婦二人三脚で携わってきたビジネスのお陰でひとり娘をベイエリアで育てあげることもできました。多くのファンの方に愛され、ここまで来れたことに本当に感謝しています。しかし、2015年にビジネスパートナーであった主人を突然失ない、生きる意味を見失ってしまった私は、歌うことで再び生きる喜びと意味を見出そうとしています。 音楽が主人にとってのアメリカ生活の中での癒やしそのものであったと同様に、現在の私にとってもとても大切な位置を占めています。今後はジュエリーの仕事とバランスをとりつつ、自分の魂が求めるままに歌と制作に取り組んでいきたいと思っています。また、主人がアメリカ生活の中で残した3枚のオリジナルCDも是非聴いて頂ければと思います。

生まれて初めてなりたいと思った職業
 カンバン屋さん。映画館の大きな絵を描く仕事に憧れました。

いまの仕事に就いていなかったら
 日本で普通に主婦をしていたんじゃないかと思います。

現在、住んでいる家
 エルセリートの一軒家。

睡眠時間・起床時間・就寝時間
 普段は朝7時過ぎ起床、12時前には寝るようにしていますが、クラフトフェアの朝は3時とか4時に起きます。

休日の過ごし方
 庭のブランコの上で揺れています。

好きな場所
 夫の墓のあるエルセリートのサンセット・ビュー・セメタリ―の平安ガーデン。最も心が落ち着く場所です。

最もお気に入りのレストラン
 最近はあまり行っていませんが、インド料理の「Udupi」とネパール料理の「カトマンズ」。

よく利用する日本食レストラン
 「Sushinista」ここで、2、3カ月に1度、演奏活動をしています。ジャンルはJazzやボサノバです。

1億円当たったとして、その使い道
 まず家のローンを払い終わって、後は「立花紀彦Fund」を設立して音楽活動をする資金にします。自分自身の音楽活動を通して、より多くの方々と出会い、彼のことをたくさんの人に知ってほしいです。それによって、彼の音楽をより多くの人達に紹介することも出来るかと思います。1月に彼へのトリビュートアルバムを出しますが、主人の残した3枚のアコースティックギターアルバムは、アメリカ生活の中での彼自身の癒しだっただけに、とても心癒される音楽なので、より多くの、それが必要とされる方々へ届けることが出来ればなによりです。多くの人のお役に立てればと思います。

日本に戻る頻度
 12月から1月にかけて毎年帰ります。日本での音楽活動をするためです。

最近日本に戻って驚いたこと
 お正月でも営業している店がたくさんあること。

日本からベイエリアに持って帰ってくるもの
 博多のお菓子。

現在のベイエリア生活で不安に感じること
 以前は老後の医療や医療費などへの不安がありましたが、突然にやって来た夫の「死」を経験して、不安を感じる必要がなくなりました。心配するのは無意味です。将来の不安よりも「今」を精一杯生きること。ただそれだけです。

お勧めの観光地
 ミュアーウッズ。主人の1枚目のCDのジャケット写真もここで撮りました。

永住したい都市
 夫のお墓があるエルセリートにずっといたいです。

5年後の自分に期待すること
 主人が亡くなって悲嘆にくれていた時は、とにかく1日1日を生きていく事で精一杯でしたが、音楽活動を始めてからは、とにかくその時点で1年だけは一生懸命なんとか生きてみようと思うようになりました。今もそうなので1年先しか自分の未来は想像はつきませんが、出来るなら音楽活動を通して、私と同じような悲しみを抱えた人達のグリーフケアのお手伝いが少しでも出来るようになっていればいいなと思います。

最も印象に残っている本
 『生きがいの創造』

最近読んだ本
 アニータ・モージャニの『喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれた事』

自分を動物にたとえると? なぜ?
 鶏でしょうか、酉年生まれなので。

座右の銘
 一期一会。突然の夫の死を乗り越えて、人生に突然の死が訪れてもいつでも後悔しないような生き方をしたいと思っています。すべての出会いに感謝を込めて。

(BaySpo 2017/09/15号 掲載)

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