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| 文化芸能編 Vol.27 |
平野敏男さん |
東京都池袋出身。日本で大学卒業後、1974年にアメリカ東部を4カ月間旅して帰国。就職した会社のアメリカ工場立ち上げで翌年アトランタに再渡米。約2年で工場が閉鎖し、ナッシュビルで日本食店のアシスタント•マネージャーを務める。その後ミネソタ州、テキサス州を渡り住み結婚、86年にサンフランシスコへ移動。 |
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アメリカで歌えることだけで幸せ |
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20年代に活躍したカントリーシンガーのジミー•ロジャースに魅せられ、大学を卒業した1974年にアメリカ東部に単身飛び立った平野敏男さん。東部の町を渡り住み、現地アメリカ人と歌い、そして踊り、現在サンフランシスコで地元カフェやバーで歌う平野さんの暮らしぶりを聞いた。 |
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オールドタイミー・カントリーシンガー(Toshio Hirano) | BaySpo 1182号(2011/07/22)掲載 |
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平野さんが歌うオールドタイミー•カントリーとは? 私の主観からですが、1950年代以前にレコードされた音楽ですね。カントリーソングも時代とともに変わります。現在は技術の発達で、世界中で聞くことができるようになり、現在のカントリーソングは商業的にも多くの観客に受ける曲に変わりました。16歳のときに私が聞いたカントリーソングは今のカントリーソングの中では薄れてしまっています。何かに魅了されるときは理屈ではないですよね。そのときの雰囲気とフィーリングですよね。結局、それは音で、歌詞は英語だったので分かりません。声の質、メロディー、それ以上の何か、その歌を包んでいる何かだったんです。演奏している人たちも恐らく分かっていなかったと思うその何か。当時分かりませんでしたが、その後、カントリーソングについて勉強して、35年経ちました。今分析してみると、20、30年代に彼らがジョージアで歌っていた特殊な声の出し方、ギターの弾き方、つまりそれら曲が持つ土着性だったんです。そこに私は魅了されました。
カントリーシンガーの道に進まれたきっかけは? 中学生のころ、ベンチャーズ、ビートルズ、ボブ•ディランを見て「かっこいい」と感じ、ギター、バンジョー、マンドリンを始めました。英語なんか分からなくてもそのカッコだけです。カントリーは16歳のころ、在日米軍用のラジオ放送で流れていたのを聞いて「何だこれは〜! もっと聞いてみたい」と感じました。日本の放送でもジャズやロックはたくさん流れていましたが、カントリーは一週間に一度、数時間だけで流れていましたから、それを待つ楽しみもあって興味がどんどん膨らんでいきました。希少価値があったんです。しょっちゅう聞いていたら飽きていたかもしれません。カントリーに出会ってからは、ギターだけでカッコいい悪いは関係なしでカントリーを歌い始めました。
渡米したへ行ったきっかけは? 最初に買ったカントリーミュージックのレコードから4年後、大学3年の時に友だちから借りたジミー•ロジャースのレコードを聞いて、何もかも吹っ飛びました。この出会いでもうだめになり、仕事する気も就職する気もなくなり、そのショックで「ジミー・ロジャースのいたアメリカにいかなくては」と思い、大学を卒業して4カ月間アメリカ東部を渡り歩き、日本に帰ったときには住みたいと思うようになってました。
ヒラノさんが衝撃を受けたというジミー•ロジャースとは。 1920年代に活躍し「カントリー音楽の父」と言われ、その後多くのアーティストに影響を与えました。私にとって、ロジャースより偉大なアーティストの存在は考えられません。
その後どうやって再びアメリカへ? 幸か不幸か、これも運命だったのでしょうか。日本で有名でもない小さな会社に就職ましたが、会社がアトランタで工場を創業することになりそのアシスタントとして3年ほどアメリカに行く気はあるかと聞かれ、「考える必要ないです。行きます。無条件で行きます。給料なんかもいらないから行かせて下さい」といった勢いで再渡米しました。その会社は1年半で倒産して帰ることになったのですが、これまた運命だったのでしょうか、バーで隣に座った日本人が当時テネシー州ナッシュビルで最初の日本のステーキレストランを開くということで、アシスタント•マネージャーとして私が誘われ、そこで4年近く働き、グリーンカードももらいました。それで、日本に帰る必要もなくなり、力が果てるまでアメリカにいようと決めました。
カントリシンガーとしてのキャリアは? グリーンカード取得後、ミネソタ州へ行き、地元アメリカ人と歌を歌いながらぶらぶらしたり、ダンスをしてました。路上では、前に帽子を置いて、知っていた5〜6曲を繰り返し歌ってました。そんなとき、パーティーで知り合ったテキサスのパンクロッカーに誘われ、「10曲覚えればオースティンのカフェで歌える」と言われ移動しました。ステージに上り、コンサートの前座、カフェ、バーで歌う仕事をもらいました。日本人の顔でジミー•ロジャースを歌っているのですから、半分は物見せ興行でした。でも、見ている人たちが喜んでいる姿を見て「自分はできるんだな」とエゴが出てきました。その後、ぶらぶらしている内にテキサスで家内に会い、子どももでき、東部で10年住んで、西部を見てみたかったのと、親も年をとり西部にいれば日本にもすぐ帰ることができると思いベイエリアへ移動しました。
英語で歌を歌うことで大変なことは 英語の発音は決して終わらないチャレンジですね。ギターで弾く音の方は、本当にたくさん演奏してきましたから大丈夫ですが、発音練習は車の中、道ばた、歩いているとき一日中やってます。演奏中に時々発音ミスをしますが、プロとして、気づかせないようにしてます。ミスしていないように振る舞うんです。ミスしたように振る舞うと観客は気づきますから。
好きな曲は ジミー•ロジャースの『Waiting for a Train』と『Peach Picking Time in Georgia』です。初めて聞いてノックアウトされた彼の曲です。最初は、この2曲だけ覚えて歌い、10年間があっというまにたってしまいました。
ヒラノさんにとって歌うこととは? 歌っていなかったらアメリカにいる意味がないと言っても過言ではありません。たまに、アメリカ人とこうやって一緒に歌っていることが「夢を見ているのではないか」といまだに感じることがあります。ひょっとしたら夢かもしれない。
最初にベイエリアへ移ったときの印象 アメリカ東部では小さな町から中規模の町と10年間暮らしましたが、車のパーキングに困ったことは一度もありませんでした。
生まれて初めてなりたいと思った職業 カウボーイ。昔見た映画『シェーン』がとてもかっこ良かった。半分ファンタジーです。
睡眠時間・起床時間・就寝時間 11時には寝るようにしてます。7〜8時間寝ます。
休日の過ごし方 妻と自転車でゴールデンゲートブリッジを越えて、マリンカウンティーまで行きます。自転車は中学のころから長距離を走ってました。池袋から奥多摩までよく行きました。
ベイエリアおすすめ観光地 ミュアウッズ。日本人は木の多さには驚きませんが、コーストラインに生える巨大なレッドウッドと入組んだ丘の雰囲気や地形はお勧めです。
最もお気に入りのレストラン あまり外食はしません。家でよくラーメンを食べます。
1億円当たったとして、その使い道 10万くらいならピンときますね。借金払って、細かな物が買えたりと使い道が分かるけど、一億と言われると、人生が狂ってしまいますよ。
日本に戻る頻度 ここ数年は一年に一度母を訪ねに戻っています。
最近日本に戻って驚いたこと 育った町が変わってしまってセンチメンタルになることはあります。
日本に持って行くお土産 日本にいる私の家族みんながアメリカのお菓子が好きです。日本のデパートにも売っていますが、みんなスーツケースで到着するお菓子を見るのが好きですね。
永住したい都市 サンフランシスコは私にとってすばらしい所です。もしチャンスがあれば、メーン州にある森の奥で暮らしてみたいです。これも半分ファンタジーですが、その場所はアメリカの隅で、産業もなく汚れのない森があるんです。しかも、そこには私の大好物のブルーベリーが野生で育っている唯一の場所なんです。1週間いたら幸せで死んでしまうかもしれません。
自分を動物にたとえると? ドンキー。粗食で文句を言わないと聞いたので。
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■インタビューを終えて 「カントリーソングを弾いて歌っていれば、ほかに何もいらない」と話す平野さんはまさに無欲。中学生のころからの夢であり趣味だった音楽を40年ほどたった現在も歌い続け、人生を謳歌しているといった感が伝わってきました。音楽の話になると、子どものように楽しく話す平野さんもまた印象的でした。
(BaySpo 2011/07/22号 掲載) |
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