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| 文化芸能編 Vol.26 |
佐藤雅都華さん |
福岡県久留米市筑後平野で育つ。5歳の頃から祖父の勧めで毎週お花、お茶、箏、お経を近くの寺で習い始める。家にオルガンがあったことから洋楽に興味を持つ。帰米2世のご主人との結婚を機に1961年渡米。三和銀行で29年、JCB株式会社で11年間勤める。その間、箏の浜崎雅都女先生に師事、浜崎先生の日本帰国により雅都華会を設立、現在生田流正派邦楽会本部評議員、アメリカ支部長を務める。生田流正派邦楽会アメリカ支部のウェブサイトはwww.SeihaUSA.com。 |
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教えることは惜しまない |
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北加桜祭りでは第1回から今年の第44回まで休むことなく箏の演奏で参加。週7日間、箏の指導を行っている佐藤雅都華さん。生田流正派邦楽会アメリカ支部長として、箏演奏グループの佐藤雅都華会の大師範として門下生の育成とアメリカでの日本文化の紹介に毎日を捧げる佐藤さんの暮らしぶりを聞いた。 |
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佐藤雅都華会 大師範、箏曲•三弦教授(Masazuka Sato) | BaySpo 1170号(2011/04/29)掲載 |
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生田流正派邦楽会アメリカ支部での活動は? アメリカには、ニューヨーク、サンディエゴ、ピッツバーグ、ユタ、ニュージャージー、シアトル、ポートランドに支部があり、これまで演奏した場所は数えきれません。桜祭りでの演奏はもちろん南はサリナス、ストックトンまでベイエリア各地で演奏を行います。サクラメントのステートフェアにも暑い中演奏しました。家元を迎えて7月10日(日)にサンフランシスコのハーブストシアターで2回目の演奏会を行います。家元を迎えるのは今回で5回目です。
お箏を始めたきっかけは? 5歳のころから、祖父に勧められて実家近くのお寺でお花、お茶、お箏などの日本文化を習わされましたが、あまり好きではありませんでした。福岡の実家に叔母様の箏が置いてあり「弾け弾け」とも言われていましたが逃げていましたね。しかし、何かの縁ですか、結婚を機に渡米しアメリカではピアノを本格的にやろうと決めていたのですが、何か私にしっくりくるところがなかったんです。そこで主人にお箏の浜崎雅都女先生というすばらしい先生を紹介され、試してみたのがきっかけです。娘のようにかわいがってもらいました。
大師範としての活動のきっかけは? 趣味で始めたお箏でしたが、北海道まで行き資格を取り、生徒を持つようになりました。ある時、浜崎先生が家庭の事情で日本へ帰国することになり、私よりも歳上の先輩方がいたにも関わらず「私に後を次いでくれ」とおっしゃるんです。私はびっくりしてしまい先生の家を飛び出したのですが、先生がスリッパで追いかけて「もう少し考えて下さい」と頼まれるんですよ。主人も反対しましたが、先生のアシスタントの方も説得しに家までいらして、結局受けることにしました。早速、次週にはサリナスへ行って跡継ぎとして紹介されました。三和銀行での仕事もあり、サンフランシスコ大学に通っていましたから本当に忙しかったです。結局、学校は忙しくてやめましたが、今考えると箏をやっていて日本では一流のNHKホールと国立大劇場で演奏させて頂き、本当に良かったと思っています。
指導者としてのモットーは? 浜崎先生の後を受け継ぐまではのほほんとお箏を練習していましたが、上に立つことになり責任感を感じ相当勉強しました。日本にも毎年2、3回帰り、押し手で指から血が出るまで練習しました。アメリカで私に教えてくれる人は誰もいませんから、ぬるま湯に浸かっているようなことでは生徒は育ちません。初歩の人を教えるときは、その人の目線に立って私も原点に戻ります。教えることは難しいけれども、生徒に受け入られ、また、生徒が良い人間として育ってもらうことも大事だと思います。弾くことも大事ですが、人としての性格も大事です。 生徒から歌詞の意味を問われ、箏の歌詞である小倉百人一首の世界を理解していないと教えることもできません。万葉集を読むことが趣味なので、日本に帰ったときに奈良を歩くと万葉集の世界が分かってくるんです。そういった深いところまで聞いてきてくれる優秀な生徒がいることもありがたいと思っています。お箏は地味ですが、しっかり日本の伝統音楽を学んで、私がいなくても後に継承できるようにしています。私は教えることに対しては惜しみません。
日本文化の継承で大変なこと 350年ほど前に作曲された「六段の調べ」という有名な曲にしても、若い人は知りません。私の実家に行っても、大きなピアノがポンと置いてあります。姪御たちに「おばちゃん、お箏ってなあに」なんて言われると情けなくなります。地元の高校へ演奏に行くと、その時は興味を持って見てくれる生徒はいても「習いに行ってもいいですか」という子はほとんどいないです。私の会は皆が仲良く活動しています。いつまで続くか分かりませんが、ずっと続いてほしいです。私が忙しいときは、主人には申し訳ないけれども週末も返上して教えています。習う方も教える方も大変ですが、私がしっかりやれば、後継者がでてきてくれると思います。
アメリカでお箏を続ける意義は? 日本の音楽を広めるためです。私らがやらないと誰もやりません。アメリカの田舎で演奏すると、白人が「きれいな音」だと言ってくれます。やらなければ誰も知ることはありません。
最初にベイエリアへ来たときの印象 サンフランシスコのシンフォニーホールで生演奏を聞くことができ感激しました。生でプロの演奏が聞ける、なんてすばらしい所だと思いました。シーズンチケットを購入していつも行ってました。
1億円当たったとして、その使い道 皆さんに無料で貸し出せて、300人ほど収容できる音響の良いコンサートホールを作りたいですが、現在は東日本大震災への寄付します。会に宮城県出身が4人いて、大変な苦労が身にしみて分かっております。
英語で失敗したエピソード 銀行に勤めていた頃、テキサスに電話で送金をするときの数字の発音で、14と40の違いが理解してもらえず情けないと思いました。克服はしましたけれども、テキサスに電話をしなければいけない日はゾッとしてました。
英語が100%ネイティブだったらどんな仕事に? 子どもが好きですので、児童心理学を勉強してたでしょう。保母さんを日本でしていた時期もありました。
生まれて初めてなりたいと思った職業 体操は何でもできたので体操の先生です。高校のソフトボール部で活躍していたときには、日大から呼ばれたこともありました。
休日の過ごし方 40人のアクティブな会員がいまして、お箏の指導を週7日間してます。生徒から頼まれると断ることができません。
ベイエリアで好きな場所 主人とおにぎりと本を持って、サンフランシスコのクリシーフィールドで1時間ほどひなたぼっこします。サンフランシスコにはまだ穴場がたくさんあります。ゴールデンゲートパーク内の日本庭園と美術館で演奏もしたことがあります。あの公園には見る場所がたくさんあります。
日本に戻る頻度 年2、3回。お箏と三弦の練習と正派の評議委員会の出席で帰ります。
最近日本に戻って驚いたこと 日本女性と男性ファッションがきれい。電車で見かける若い人を見ると細くて、何を食べているのか気になります。アイフォーンが流行っていて、公衆電話がないことは不便です。
日本に持って行くお土産 ギラデリのチョコレート。トレーダージョーズのフレッシュなピスタチオナッツ。
日本からベイエリアに持って帰ってくるもの 農林水産大臣賞を取った九州の「八女茶」。
現在のベイエリア生活で、不便を感じるとき 駐車場が少ない。生徒用の駐車スペースがほしいです。
お勧めの観光地 ベイブリッジとトレジャーアイランドから見えるサンフランシスコの夜景はきれいですね。まるでおとぎの国で浮いているみたいです。カリフォルニアストリートはライトアップされていて本当にきれいです。
5年後の自分に期待すること このままがいいです。指導者としてリタイアはしていないと思います。その間日本で、正派創始100周年に演奏会が開催されます。アメリカ支部からも参加したいと思います。
自分を動物にたとえると?なぜ? うさぎ。芯がしっかりしていておとなしい。純白で曇った心がないです。
座右の銘は? 「努力すれば報われる」。才能があったとしても努力しなければいけません。
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■インタビューを終えて インタビューを通して佐藤先生は「生徒、親先生、まわりの人に恵まれてここまできました」と繰り返しおっしゃってました。日本の伝統文化継承に毎日休みなしで務めておられるひたむきな姿勢が、まわりの人に伝わっているからこそ、良い人々が集まってくるのだろうと思います。奈良時代から伝わる日本のお箏が一人でも多くの方に継承されることを願います。
(BaySpo 2011/04/29号 掲載) |
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