文化芸能編  Vol.15
フレデリック・ショットさん
ワシントンDCで生まれ。手塚治虫、池田理代子、松本零士、士郎正宗、星野之宣、浦沢直樹など、多くのマンガ家の作品を翻訳・共訳して海外に紹介。マンガを通して日本文化を紹介する作家としての執筆活動のほか、翻訳家、通訳者としても多方面で活躍。1983年の初著「Manga! Manga! The World of Japanese Comics」で、日本漫画作家協会より第2回マンガ・オスカー賞特別賞を受賞。ほかにも、朝日新聞社の手塚治虫文化賞特別賞(2000年)や、旭日小綬章(2009年)、第三回国際漫画賞特別賞(2009年)を受賞し、日本マンガを海外に広く紹介した功績が評価されている。「ニッポンマンガ論」「Dreamland Japan」「Native American in the Land of Shogun」など著書も多数。ウェブサイト:http://www.jai2.com/
マンガは19世紀の浮世絵に近いんじゃないか
海外で「Manga」という言葉が今ほど知られていなかった1970年代、にいち早く「火の鳥」を友人と一緒に英訳して以来、「鉄腕アトム」や「ベルサイユのばら」といった日本マンガの代表作を次々に英訳し、アメリカにおける日本マンガブームのパイオニア的存在となったフレデリック・ショットさん。手塚治虫さんとも親しかったというフレデリックさんにマンガへの想いや手塚さんとの思い出などを聞いた。
フレデリック・ショットさん

作家・翻訳家・会議通訳(Frederik L. Schodt)BaySpo 1107号(2010/02/05)掲載

出身は?
 東海岸生まれですが、ノルウェイ、オーストラリア、それから高校生のときに日本で育ちました。大学はUCサンタバーバラ校に進み、3年生のときに日本のICU(国際基督教大学)に2年間近く留学しました。その後、東京でプロの翻訳家として仕事をしていた期間を含めると、日本に住んでいたのは通算7、8年くらいです。1978年からはずっとサンフランシスコに住んでいます。

現在の仕事、専門分野について
 昔から一応社会的保証の全くない、花のフリーランサーです(笑)。専門がないといえば無責任に聞こえるかも知れないですが、マンガ以外にも、日米関係の分野全般で通訳、翻訳、執筆活動をしています。

マンガとの出会いは?
 ICUにいた頃、同級生たちがみんなマンガを読んでいて、ちょうど「マンガは俺たちの文化だ!」という雰囲気が出てきた時期でした。私は日本語の学習方法のひとつとしてマンガを読み初めたのですが、初めて読んだ作品は、友人が貸してくれた「天才バカボン」がだったかもしれないです。そして手塚治虫さんの「火の鳥」を読んでからはすっかりマンガファンになり、いつかマンガに関係する仕事ができたらいいなと漠然とした夢を持つようになりました。

手塚治虫さんとの出会いは?
 東京で翻訳家として働いていたときに、大学時代の同級生、私を入れてアメリカ人2人と日本人2人とで、マンガを英訳する「駄々会」というグループを作ったんです。まずは「火の鳥」を英訳しようということになって、そのメンバーで手塚さんの事務所を訪ねていったことがありました。初めはマネージャーの方と会うつもりだったのですが、手塚さん本人が話を聞いてくれました。それが初めての出会いです。手塚さんは最も早く海外に渡った戦後のマンガ家の一人で、当時すでに鉄腕アトムがアメリカでテレビアニメとして放映されていたくらいでした。ただ、マンガ本として英訳されている作品はほとんどありませんでした。

手塚さんはどんな人だった?
 とにかく好奇心の塊。一種の天才ですね。どんなものにでも興味をもって、それをすぐ作品の中に盛り込むんです。気をつけないと、会話の内容もすぐにネタにされてしまう(笑)。インテリで、ユーモアに溢れていて、会話もすごく刺激的で面白かったです。アメリカに来たときは通訳としてカナダやニューヨークなど、あちこち旅行にも同行しましたが、一度なんて、空港の搭乗口で二人で話が弾んでいるうちに、飛行機に乗り損ねてしまったことがありました(笑)。僕にとっては雲の上の存在でしたが、当時、手塚さんにとって、気さくに何でも話せるアメリカ人というのは珍しい存在だったと思うんです。だからすごくかわいがってもらいました。僕自身に大きな影響を与えたくれた人です。

アメリカにおけるマンガブームはどのようにして起こった?
 このブームは突然起こったというより、20年以上かけて徐々に大きく成長してきたという感じがします。きっかけを挙げるとすれば、まずひとつは、1980年代のアメコミ、いわゆるアメリカのマンガが、スーパーヒーロー中心でストーリーもワンパターンだったため、飽きられてきていたというのがあります。そこに登場した日本のマンガが新鮮に見えたのだと思います。初めて商業的に成功したという意味では、1987年に翻訳されて人気を呼んだ「子連れ狼」が最初のブレイクスルーになったといえます。その後は「セーラームーン」や「ポケットモンスター」などのアニメ人気に引っ張られてマンガが伸びていきました。

今後のマンガ市場はどうなると思う?
 日本の出版業界全体が不況の中、他の出版物に比べてマンガの落ち込みはそれほど激しくはありませんが、市場規模は大体このくらいじゃないでしょうか。アメリカではまだファンになりたての若い世代がいるので、その分もう少しは成長するかもしれませんが、逆に心配なのは日本の方。日本のマンガ市場は1996年頃がピークで、その後かなり下がり続けています。少子化というのも要因のひとつですし、それに今は電車でマンガを読んでいる人をほとんど見かけないですよ。マンガに限らず新聞も。みんな携帯を触っています。日本のマンガ業界が元気をなくしてしまい、いい作品が出なくなってくると寂しいですね。もしかしたら、マンガは19世紀の浮世絵に近いところにきているんじゃないかと思うこともあります。

最近翻訳したマンガは?
 昨年は浦沢直樹さんの「PLUTO」を、駄々会のメンバーだった友人のジェレッド・クックと一緒に訳しました。これは鉄腕アトムのマンガ原作のエピソードをうまく大人向けに再料理した作品です。鉄腕アトム自体は、意外だと思われるかもしれませんが英語版がずっと存在していなくて、2002年に私が全巻を英訳したんですね。そのベースがあったので、この仕事はすごく面白かったです。昨年末に日本に行ったときには、浦沢さんにも会えてとても感激でした。

昨年は旭日小綬章をはじめ、第三回国際漫画賞の特別賞などを受賞されましたが?
 ギャンブルで当たることはないのに、不思議と賞には大当たりでしたね(笑)。打ち止めになるくらい。本当に嬉しかったですね。でも日本文化を伝えていこうと頑張っていらっしゃる方はほかにもたくさんいますから、正直いうとどうして私が?という思いもあるんです。

フレデリックさんにとって仕事とは?
 大げさに聞こえるかもしれないですが、自分にとっての「仕事」というものは、自分にとって意味のあるような形で社会や世界に何らかの形で貢献すること。狭義の意味では、お金になるようなこと。つまり、それ以外のものは全部自分にとっての全くの「遊び」の範疇に入ってしまうかもしれないです。でも、遊びながらお金がもらえる仕事というものもあるはずだというのは自分のひとつの信念でもあります。仕事に趣味を常に融合させようと努力してきています。

インタビューを終えて
 豊かな語彙を的確に使う、「流暢」のレベルを越えたフレデリックさんの日本語に驚きました。それと同時に、サブカルチャーであるがゆえに、言葉だけではなく世代が違うだけでもすんなりと理解できないことが多いマンガの世界を、とことん突詰めてきたフレデリックさんの取り組みには畏敬の念を抱かずにはいられません。


フレデリックさんに5つの質問!
いまの仕事に就いていなかったら?
才能はないですが、やっぱりマンガ家になれたらいいなと思う時があります。
生まれて初めてなりたいと思った職業は?
 うむ。多分カウボーイではないでしょうか。
最近読んだ本は?
 村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいます。
お気に入りのレストランは?
 サンフランシスコのIrving St.にあるLimeという小さなレストランです。東南アジアのシンガポール、マレーシア、インドネシア風の料理が楽しめます。
日本に郷愁を感じるときは?
冬にはおでん、夏にかき氷が食べたくなるとき。

(BaySpo 2010/02/05号 掲載)

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