文化芸能編  Vol.37
村本 歌州子さん
1932年パロアルト出身。第二次世界大戦の影響で10歳のときに収容所に収監。収容所時代に琴と出会い、苦難の時期の励みとなる。生田流筑紫会初代家元の弟子となり、18歳で師範に。1966年に大師範となり、1979年に海外では初めて「飛梅司(とびうめのつかさ)」大師範を任命された。現在は自宅やサンノゼにて琴や三味線の指導にあたり、50人以上が準師範、師範の免状を獲得している。SF総領事館から表彰されるなどその活躍は高く評価されている。
50年に渡って「琴」を指導
 海外で初めて飛梅司大師範(生田流筑紫会の最高位)を任命され、今年10月初めには琴の指導50周年を迎えるなど活躍をされている村本 歌州子さんにベイエリアでの暮らしぶりを伺いました。
村本 歌州子さん

(Kazuko Muramoto)BaySpo 1310号(2014/01/03)掲載

ベイエリアに住むことになったきっかけ
 ベイエリア(パロアルト)の出身です。収容所で別の州に行ったり、日本で暮らしたりもしましたが、出身地であるベイエリアに戻ってきました。

ベイエリアの印象
 生まれたのがベイエリアなので、それほど特別な印象を持っていないというのが正直なところです。ですが、時々日本に行って雨や湿気の多い気候に接すると、べイエリアの天気、気候の良さを改めて感じます。

自分の専門分野について
 私の母が音楽が好きで、歌ばかりうたっていました。収容所に入る前から私には音楽関係の習い事をさせたいと思っていたようです。時代の流れで収容所に入らなければならなくなって、偶然そこにお琴の先生がいらっしゃったんです。私が11歳のときで、お琴が何かなんてことも知らずに習うことになりました。習うことにはなったのですが、そもそもお琴が手に入らない状況でした。しかし父がどこからか糸も張られていないお琴を手に入れてきて大工だった父がいろいろと手直しをしてくれて何とか練習を始めることができました。収容所の中ではあまりすることがないので、そもそも働き者の日本人の中ではお琴や舞踊、詩吟などが流行ったんです。そして、私が中学生の頃に日本に強制送還された時も、父のいとこがお琴の筑紫会の方を知っていて、私もそちらに入会することになりました。良い先生に巡り会う事ができ、私もお琴を一生の仕事にできてとても幸運だったと思っています。

その道に進むことになったきっかけ
 きっかけ、というのはありません。お琴は常に私の側にありましたし、自然に決めました。素晴らしい先生に出会えたのもお琴の道を歩み続けることができた理由の1つではあります。ただ、戦時中だったので生きているのが精一杯でしたし、強制送還されて戻ってみたら日本には食べ物もありませんでした。そんな中だったので、将来について考えるという余裕はあまりなかったように思います。

英語で仕事をするということ
 アメリカ生まれなので、英語で苦労したことはありません。収容所の中にも学校があって、母は私に日本語を習わせたんです。結果的に、私は英語も日本語も問題なく使えるようになりましたから、その時の母の判断にはとても感謝しています。お琴のお稽古で使うのは英語と日本語がちょうど半分ずつくらいでしょうか。私は英語も日本語も両方できるので、日本文化を英語で教えることができて良かったと思っています。ただ、歌詞を教えるのはいつも難しく、英語しか理解できない弟子にはその歌詞の意味を説明して、発音も教えて・・・まるで日本語のレッスンです。

あなたにとって仕事とは
 一言では表現できませんが、人生の全てです。結婚したのが21歳の時で、主人は「お琴に惚れた」と言っていましたので、お琴を仕事にしていなければ主人との結婚もなかったかもしれませんね(笑)。

生まれて初めてなりたいと思った職業
 食べて行くので精一杯でしたから、何になりたかったということはありませんでした。中学生の頃に日本(久留米)に強制送還されて、18歳でアメリカに戻ってきて働いたことがありました。今はもうなくなってしまった会社ですが、車の保険会社で文字をタイプライターで入力する仕事でした。それは貴重な体験でしたし、楽しかったです。

いまの仕事に就いていなかったら
 考えられないです。

現在、住んでいる家 
 サンロレンゾにある一軒家です。近くにシニアセンターなどもあって、気に入っています。

乗っている車
 今は自分では運転していません。昔は自分の運転でお稽古などに行っていたのですが、最近は運転するのをやめてしまいました。お稽古の日や買い物などは、必要があれば息子が連れて行ってくれます。

睡眠時間・起床時間・就寝時間
 時計のように朝6時に目が覚めます。夜はベッドに入るのは早いですが、ベッドの中でテレビを観ています。


よく利用する日本食レストラン
 子どもが遊びに来た時には日本食レストランの「ミナミ」に行きます。アメリカの料理も食べますが、やはり日本食の方が食べやすいなと感じています。

1億円当たったとして、その使い道
 現実的でないから、急には考えられませんが・・・。80歳も過ぎましたので、お金があってもなくても元気でいられたらいいなと思っています。

日本に戻る頻度
 プライベートでは年に1回です。それに加えてお琴の講習会が年に1回ほどありますので、そのスケジュールに合わせて帰ります。今年は娘2人に日頃のお礼の気持ちを込めて旅行をプレゼントしまして、10日間かけて広島から東京まで親子水入らずで旅行をしました。

最近日本に戻って驚いたこと
 定期的に戻っているのでそれほどありませんが、毎回行くたびに新しい建物ができているのには驚かされます。

日本に持って行くお土産
 毎回悩みます。難しいですね。毎回持って行くのはゴディバのチョコレート。レーズンも喜ばれます。

日本からベイエリアに持って帰ってくるもの
 主人がいた頃は、乾物やひもの。あとはお茶でしょうか。自分だけになってからは、特に何かを持ち帰ってくるということはありません。

現在のベイエリア生活で、不便を感じるとき
 今は車がないので不便だなと思っています。バスはありますが、やはり好きな時に移動できる車の便利さには敵いません。

現在のベイエリア生活で不安に感じること
 以前空き巣に入られそうになったことがあるので、家に1人でいる時や留守中は不安です。防犯用のアラームをつけていますが、それでもやはり心配ですね。

お勧めの観光地
 毎年8月に息子がLAに行くのですが、今年は帰りにピスモ・ビーチに寄ってもらいました。サンタバーバラから1時間半ほど北上したビーチなのですが、街もこじんまりとしてゆったりとしていて、大変気に入りました。主人と出掛けていたときは、目的地から自宅まで寄り道もせず帰ってきていましたので、とても新鮮でした。

永住したい都市
 あまり現実的ではないかもしれませんが、ハワイに住みたいと思ったことがありました。

5年後の自分に期待すること
 5年後までは想像できませんが、2年先に横浜で公演が決定しています。曲も決まっていますし、少なくともそこまでは元気でいなければならないと思っています。

最近観た映画
 映画はあまり観ません。観たい気持ちもありますが、まとまった時間が取られてしまうので、時間が惜しいなと思ってしまうんです。 

(BaySpo 2014/01/03号 掲載)

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